【障害者福祉】江戸時代(近世)における障害者の地位とは【民俗学】

どうも、就労移行支援を受けているMです。

福祉のことも歴史の視点から見るとなかなか興味深いものがたくさん見えてきますね(*´ω`)

近世日本の障害者

日本の社会保障を理念から考えるためには、これまでの社会保障が歩んできた道を外して考えることはできない。

江戸時代における障害者に対する幕府や民衆の意識を探ることを通じて、現代の社会保障を考えるうえでの一助としたい。

障害者の地位

障害者と一口に言っても、現代における障害者と江戸時代における障害者の定義は一緒なのだろうか。

江戸時代の障害者のうちいわゆる「盲人」、すなわち現代における視覚障害者の一部は、他の障害者とは分けて考えなければならない。

平安・鎌倉時代に端を発する「検校」制度は、「盲人」に名誉と地位が与えられることを保障するものであった。

室町時代以降、「盲人」は、「検校」「別当」「匂当」「座頭」といった地位を獲得することが出来、専用の頭巾や杖の所持が許可された。

彼らは琵琶、管弦、詩歌、鍼灸、按摩等の生業で活躍し、『平家物語』の覚一本を著した検校の明石覚一は、室町幕府の庇護を受けて「当道座」という男性の「盲人」の自治的組織を発足させた。江戸時代に入ってから、この「当道座」は江戸幕府からも認められ、最高位の検校は「盲人」社会の頂点として権威を誇った。

平曲や三曲、鍼灸、按摩の専売特許を獲得したほか、特別な金利を許可された金利業を営むこともでき、組織内での「仲間仕置」による広範な裁判権も認められた。

ただ、視覚障害者は世襲ではなく、金銭による官位の売買も行われた。また、貸金業は過度な高利や不当な取立てが後に幕府の取締りの対象となったほど行き過ぎた面もあった。

この「検校」制度は、「盲人」が社会的地位を獲得できる可能性を確保するものであり、仮に江戸時代にも「障害者」という言葉があったとしても「社会的弱者」というのははばかられる人々がいたことを示唆している。むしろ、「盲人」という特徴をもって、社会の中で独自の地位を占有しているのである。

しかしその一方で、検校に加入できる「盲人」は一部であり、大多数の「盲人」や、視覚以外の障害者にとっては、生業を得ることは極めて難しい時代でもあった。

聴覚障害者、先天奇形や肢体不自由の人々は、裕福な家庭の場合は家族に扶養されていたが、そうでなければ乞食となった。

乞食となった障害者たちは史料にもあまり残されていないほど人間としての扱いをされていなかったようである。奇形として生まれた障害児には捨て子とされた児も多かった。

江戸時代において捨て子となることは、そのまま生き永らえたとしても乞食として一生を送ることを宣告されたに等しかった。

(中略)

しかし、障害がなくとも生業のない乞食の中には、障害がないのに真似をして「足芸」をする者まで現れたとのことである。

障害者保護への領主と民衆の意識

江戸時代における救貧制度は、五人組制度など近隣住民の互助組織によって担われていたが、特に障害者に対する制度として全国的な制度はなかったようである。

ただ、それぞれの藩において障害者に対する保護や優遇政策が存在していたという事実は残されている。

特に乗り物に関しては、「盲人」を中心に、「盲人」以外の病人や障害者にも広く駕籠の利用が認められていた。

また、障害者に対して礫を投げつける行為に対する取り締まりが行われている藩もあった。

しかし、それはあくまでも「慈悲」という認識に基づいた政策が中心であり、封建社会の秩序を保つことを前提としていた。

先述したが、「座頭」の高利貸しは時代を経るに従い度を超えたため、正徳四年(1714年)に紀州藩では、「座頭右同断」と題し以下の禁止令を出している。

すなわち、座頭は人々に助けられて暮らす身の上であるので、座頭の金貸しを禁止する、とのお触れである。

江戸時代には他の障害者に比べれば地位が確立していた「座頭」に対する社会の扱いはやはり「慈悲」に基づくものである、との認識が幕府にもあったのであろう。

また、民衆の側にも、障害者に対する「慈悲」が善と認められる意識はあったようである。
慶長十六年(1611年)、加藤清正は東山道を上っているとき、美濃国の大井で盲目の女乞食と出会った。

盲目の女乞食が年老いた親を養っているのは不憫であるとして、金銭を与えた。

このように、江戸時代の障害者に対する幕府の意識も民衆の意識も、固定化された身分制度に基づく封建社会において、あくまでも「上」から「下」への「慈悲」が中心であった。

しかし、その対象となる障害者の扱いは「盲人」の歴史を鑑みるに、一口に社会的弱者としてのみ扱われてきたのではない一面も持っている。

また、このような「慈悲」に基づく政策に留まらず、行き過ぎた福祉政策を牽制する藩もある。

先述の座頭の金貸業の禁止令がその最たる例であろうし、寛政七年(1795年)に金沢藩では、非人小屋の運用について、非人小屋を頼らなくても生活できる者までが非人小屋を利用しているとして、小屋の利用者を身寄りのない者など、やむを得ない者に限るとの趣旨のお触れを出している。

また、文政十年(1827年)熊本藩においては、一人者や障害者などが飢えに苦しむようなことになるのは本人の力が及ばないためであるから、彼らに援助をするのは当然であるが、援助を受けている者がわがままなことをするのは不埒であるとしている。

障害者と社会的弱者

障害者は社会的弱者か。このレポートでは障害者は社会的弱者であるとの前提にたって議論を始めた。

実際に、江戸時代の障害者を振り返れば、そこには捨て子にされ乞食や非人として扱われた現代では考えられない迫害の歴史がある。

しかし一方で、障害者に対する「慈悲」の意味での「社会保障」という概念は社会的にも存在していたし、民衆の意識の中にも存在していないわけではなかった。

それどころか、障害の種類によっては救貧の対象となる社会的弱者として扱うことは困難ともいえる時代があり、時にその保護は行き過ぎる時もあった。

ただ、そこには大前提としての固定された身分制度を維持するという幕府の目的があり、「慈悲」の目指すところはその秩序を乗り越えるための社会保障ではなかった。

つまり当初から、社会的弱者に対する意識を変革させ、本来の貧困の撲滅を達成し既得権益の悪用の排除を可能とする制度ではなかった。

したがって、「慈悲」に基づく社会保障は、過度に華やかな場所か過度に貧しい場所しか江戸時代の障害者に対して与えることができず、当然ながらそこには現代で言われるノーマライゼーションの思想までを見出すことは困難なのである。すなわち、封建社会の中での「慈悲」に基づいた社会保障政策は、理念を引きずったまま明治を通して現代に引き継がれ、二極端の社会ではなくごく普通の日常を望んでいる障害者にとっては、厳しい現実を生み出してきたのかもしれない。

いずれにしても、社会的弱者の定義は時代によって一様ではなく、障害者を社会的弱者にするのは社会だということに気づかされる。

【引用元】https://www.mskj.or.jp/report/2804.html【松下政経塾】

 

何度も「慈悲」と出てくるのがポイントですね(´_ゝ`)

歴史となると猫様が眠くなっちゃうやつですが(´・ω・`) >歴史は大事よ!!

当時の人は「善」ではなく「慈悲」で障害者と向き合っていたことが分かります。

では、「慈悲」とはどんな意味なのか?

慈悲(じひ)は仏教用語で、「仏や菩薩(ぼさつ)が人々に楽を与え(=慈)、苦しみを取り除くこと(=悲)」を意味する言葉です。
ここから派生して一般的には「思いやり」「情け」という意味で使われています。

したがって、前述の「慈悲深い」は「情け深い」という意味になります。

【引用元】https://imikaisetu.goldencelebration168.com/archives/1792【意味解説ブログ】

やはり、仏教が関係してたか(;^_^A

「思いやり」っていつの時代も大事なんだなぁと感じます(*´ω`)

「善」だけだと「偽善」とか人によっては悪く捉えられてしまうけど、「慈悲」となるとより深く広く捉えられるのかなと感じます。

江戸時代の人々はこのような「広い心」を持っていたのではないかと私は思います(^^♪

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です