グループワーク、宮崎アニメと鯰絵とのつながりなどについて語る
こんにちは、エナベル水戸駅南で就労移行支援を受けているKです。
先週木曜日のグループワークでは、宮崎アニメや鯰絵などについて語りました。
M先生のパソコンの壁紙がパンダコパンダ(宮崎駿のアニメ)だったことから、パンダコパンダをはじめとする宮崎アニメの話題となりました。パンダコパンダには「あめふりサーカス」という回があって、主人公たちが家が水没しているのにハイテンションで、大洪水でもルンルン気分の場面があります。主人公たちは見知らぬ環境への期待や好奇心に振り切れていて、悲観や不安がありません。宮崎アニメでは主に主人公は少女ですが、少女を主人公にして躍動感が出しやすく、人生への強さを描いたといいます。
別の作品「崖の上のポニョ」の中にも津波のシーンがあるのですが、ポニョは元気いっぱい波の上を走っているシーンがありました。そのシーンが震災時に批判を受けたそうです。ポニョは震災前に作られた作品ですが、確かに甚大な被害を受けた人からは批判を受けても仕方ないかなあと思います。洪水を楽しむなんて非常識じゃないかとおもいますが、人間にとってふつうである未知への不安(安心できない、安くはすまない(見えないリスク)、安定しない)を宮崎アニメでは排除し、宮崎さんは安の字の状態を必ずしも良しとしないようです。
知力は武器にもなり防具にもなるけれど、常識にがんじがらめになってとらわれすぎると疑心暗鬼になって、自分の心が増幅してしまいます。それに対し、Eさんは人の心を疑ってもしょうがない、もともと人の心を信じる、だまされてもわからないと言っていて、私から見ると心がかなり大きいなあと思いました。長尾さんは、心にもベクトルがあるのではということで、自分で判断するか人にゆだねる、人にゆだねるのも自分を放棄したり、人に責任を押し付ける、本当にピュアで人にゆだねてしまう(例えば大泉洋やフルーツバスケットの本田透)、自分をわきまえたうえでだから相手に任せる(絶対他力)などの場合があるといいます。また、リーダーの才覚として他人に任せるというのは「よきにはからえ」、日本神話のアマテラスなどは究極に下に任せきっており、トップは部下などに任せきる昔からの日本流の考えだそうです。
ここから鯰絵(なまずえ)の話になりました。鯰絵は、江戸時代神無月(神のいない月)に起こった安政の大地震の直後から発行されたもので、地震が鯰が地震をおこすものとし、頭としっぽを人々が押さえつけていたり、東の守り鹿島神宮にまつられている要石で鯰をこらしめるなど、鯰はけしからんものと描かれていましたが、鯰はいつしか福の神といった描かれ方になったそうです。というのも、復興のための工事で大火事や地震の時には新しく家を作ってもらえるということで庶民(職人)の生活が潤ったということでそうなったようです。鯰絵は地震という普通に考えれば悪い事でも笑い飛ばす江戸庶民のパワーの源の一つ(たくましさ)となったようです。また、開国時、貧しい庶民が満足気に暮らしているのを外国人が見てびっくりしたそうです。そこが宮崎アニメの非日常でも楽しむような描かれ方とつながっているのではないでしょうか。
宮崎駿さんは、もともと庶民が持っていたパワーを復活できないかと、台風の前でも大喜びする子供を復活のお手本としたそうです。大雪が来ても、大人は雪かきが大変など現実に追われ気味ですが、子供は雪だるまができてうれしいなど、日常に突然やってきた日常に興奮します。非日常に興奮する子供は単なる世間知らずかというとそういうことではなく、昔から7歳以下の子供は神様の子供とされており、七五三では千歳飴で長命の願いをこめ、7歳で人間の仲間入りをすると考えられていました。日本人の躾は、ゆるいものから厳しいものになっていくのですが、例えば元服(成人式)では大人の恰好をしなければならなくなり、厳しい決まりを守らなければならなくなります。神の常識は人間にとって非常識であることが多いのです。
現在は安定した社会で変化のない社会と考えられていますが、昔も現在も四季の変化など変化が当たり前の世の中なのです。非常識になれとはいいませんが、宮崎アニメの主人公のように物事にとらわれないことやパワー(気力)を持って、大人でも子供心を持っていたいものですね。