【引きこもり】社交的な人々は「ひきこもる力」をわかってない

「ひきこもりは悪ではない。ひとりで過ごす分断されないひとまとまりの時間にこそ価値がある」
そう説いて、多くの人を救ってきた約20年前の名著があります。思想家・吉本隆明氏の『ひきこもれ』です。
絵本作家ヨシタケシンスケさんのイラストとともによみがえった『ひきこもれ<新装版> 』より「1人でこもって過ごす時間の価値」と「第二の言語」について紹介します。

時間をこま切れにされることの弊害

「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい。

そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません。ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に出張っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない。

テレビなどでは「ひきこもりは問題だ」ということを前提として報道がなされています。でもそれは、テレビのキャスターなど、メディアに従事する人たちが、自分たちの職業を基準に考えている面があるからではないでしょうか。彼らはとにかく出張っていってものを言う職業であり、引っ込んでいては仕事になりません。だからコミュニケーション能力のある社交的な人がよくて、そうでない奴は駄目なんだと無意識に決めつけてしまっている。

そして「ひきこもっている人は、将来職業に就くのだって相当大変なはずだ。社会にとって役に立たない」と考えます。

でも、本当にそうでしょうか。

ぼくは決してそうは思わない。世の中の職業の大部分は、ひきこもって仕事をするものや、一度はひきこもって技術や知識を身に付けないと一人前になれない種類のものです。学者や物書き、芸術家だけではなく、職人さんや工場で働く人、設計をする人もそうですし、事務作業をする人や他人にものを教える人だってそうでしょう。

ジャーナリズムに乗っかって大勢の前に出てくるような職業など、実はほとんどない。テレビのキャスターのような仕事のほうが例外なのです。いや、テレビのキャスターだって、皆が寝静まった頃に家で1人、早口言葉か何かを練習していたりするのではないでしょうか。それをやらずに職業として成り立っていくはずがない。

家に1人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。周りからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にも必ず必要なのだとぼくは思います。

1人で過ごす時間が「価値」を生み出す

ぼくには子どもが2人いますが、子育てのときに気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。

それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。くだらない用事や何かを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。

勉強している間は邪魔してはいけない、というのではない。

遊んでいても、ただボーッとしているのであっても、まとまった時間を子どもにもたせることは大事なのです。

1人でこもって過ごす時間こそが「価値」を生むからです。

ぼくは子どもの頃、親に用事を言いつけられると、たいてい「おれ、知らないよ」と言って逃げていました。

そうして表に遊びに行って、夕方まで帰らない。悪ガキでしたから、その手に限ると思っていました。

そうするとどうなるかというと、親はぼくの姉にその用事を言いつける。
姉はいつも文句も言わずに従っていました。
いま思っても、あれはよくなかったなあと反省します。
つまり、女の子のほうが親は用事を言いつけやすい。
姉本人もそういうものだと思って、あまり疑問をもたずに用足しに行ったりするわけです。

(中略)

ぼくの子どもは2人とも女の子です。女の子が育っていくときにいちばん大きいハンデは「時間を分断されやすい」、つまり「まとまった時間をもちにくい」ということなのではないかと思うのです。それ以外のことは、女の子でもやれば何とかなる気がするのですが、これだけは絶対に不利です。だから余計、気をつけました。

お使いを子どもに頼むくらいなら、自分で買い物かごを持っておかず屋さんにでも何でも行くようにしていました。

ほかのことではだらしない、駄目な親でしたが、それは意識してやっていましたね。

つまりそれだけひきこもる時間というものを大事に考えてきたということです。

自分の時間をこま切れにされていたら、人は何ものにもなることができません。
ゆくゆくはこれを職業にできたらいいな、と思えるものが出てきたらなおのこと、1人で過ごすまとまった時間が必要になります。
はたから見ると、何も作り出していない、意味のない時間に思えても、本人にとってはそうではないのです。

かっていた。そして、うまく逃げながらも「自分が親になったら、これはちょっとやりたくないな」と思っていたのです。

ひきこもることで育つ「第二の言語」

ひきこもりが生み出すものについて考えてみます。

1人になって自分と向き合う長い時間をもつことが何をもたらすのかについて、「第二の言語」という考え方に基づいて、説明してみようと思います。

他人とコミュニケートするための言葉ではなく、自分が発して自分自身に価値をもたらすような言葉。
感覚を刺激するのではなく、内臓に響いてくるような言葉。
ひきこもることによって、そんな言葉をもつことができるのではないか、という話です。

ぼくは、言語には二種類あると考えています。
ひとつは他人に何かを伝えるための言語。
もうひとつは、伝達ということは二の次で、自分だけに通じればいい言語です。
例えば、美しい風景を目で見て「きれいだね」と誰かに言ったとします。
これは、自分の視覚が感じた内容を指し示し、ほかの人に伝える言葉です。
自分の心が感じた内容を表現してはいるのですが、それを他人と共有するという要素も同じくらい大きい。これが第一の言語です。

それに対して、例えば胃がキリキリ痛んで、思わず「痛い!」と口に出てしまったとする。
このときの言葉は、他人に伝えることは二の次です。
つまり、意味を指し示して他者とコミュニケートするためではなく、自分が自分にもたらすために発した言葉である要素が強いのです。
これをぼくは、第二の言語であると考えます。

第一の言語は感覚器官と深く関わっています。
感覚が受け入れた刺激が神経を通って脳に伝わり、了解されて最終的に言葉となる。つまり感覚系の言語といえるでしょう。

一方、第二の言語は内臓の働きと関係が深い。内臓に通っている神経は、感覚器官ほど鋭敏ではありません。
だから痛みにしても、例えば胃の痛みは皮膚をケガしたときに比べると鈍い。

また、他人から見て、どのくらい痛いのかをうかがい知ることも難しいといえます。
例えば熱いお茶を飲んだとき、口の中ではとても熱さを感じるけれども、喉仏から下へいくとそれほど熱さを感じません。
まさに「喉元過ぎれば……」ということわざのとおりです。

ぼくはそれを、下っていく間にお茶が冷めるからだと思っていたのですが、そうではなく、喉から下は感覚が半分くらいしかないのだそうです。
ぼくはこのことを、解剖学者の三木成夫氏によって知りました。

内臓には、感覚的には鋭敏ではないけれども、自分自身にだけよく通じるような神経は通っている。
このことは、とても興味深く、示唆に富んでいると思います。
「内臓の言葉」とでもいうのでしょうか、自分のためだけの言葉、他人に伝えることは二の次である言葉の使い方があるのだということです。

大勢の人と交わることは必要か

この第二の言語、あるいは内臓の働きからくる言葉とでもいうべきものを獲得するには、ひきこもる要素が必要だということなのです。

ひきこもったりしないで、大勢の人と交わったほうが楽しいし、気分が紛れるということは確かにあります。
生きていくうえで、それなりの有効性があると思います。
でもそれは、感覚的な有効性であり、言ってみれば脳に直結する神経にとっての有効性です。

しかし、内臓に響くような心の具合というのは、それでは絶対に治らない。
人の中に出ていって、食事をしたり、冗談話をすれば助かるということはないのです。
ひきこもって、何かを考えて、そこで得たものというのは、「価値」という概念にぴたりと当てはまります。
価値というものは、そこでしか増殖しません。

一方、コミュニケーション力というのは、感覚に寄りかかった能力です。
感覚が鋭敏な人は、他人と感覚を調和させることがうまい。
大勢の人がいる中に入っていく場合、それは確かに第一番手に必要な能力かもしれません。

しかし、それは「意味」でしかない。

「意味」が集まって物語が生まれるわけですから、そういう経験も確かに役に立ちます。
けれども、「この人が言っていることは奥が深いな」とか、「黙っているけれど存在感があるな」とか、そういう感じを与える人の中では、「意味」だけではなく「価値」の増殖が起こっているのです。それは、1人でじっと自分と対話したことから生まれているはずです。

https://toyokeizai.net/articles/-/372123 東洋経済ONLINEより引用

 

エナベルで就労移行支援を受けています、ウサギのTです。

ひきこもる力。自分と向き合って、第二の言葉を生む言葉。自分の中から湧いて出てくる言葉。

それをマスメディアの人たちは報じない。出張って人の前で話すことが職業だから、それと真逆なひきこもる人たちを断罪する。

「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい…私もそうは思いません。

引きこもってる人には引きこもってるわけがあるわけで、それをないがしろにして、社会に引っ張り出せというのはよろしくないと思います。

自分だけがわかればいい自分だけの言葉は育まれない。

社交的であればあるほどそうなのかもしれません。

引用元が言っているように、コミュニケーション力というのは、感覚に寄りかかった能力であり、大勢の人がいる中に入っていく場合、それは確かに第一番手に必要な能力かもしれません。
しかし、それは「意味」でしかない。

自分だけの言葉を探すには、ひきこもる力がなくては。

意味だけじゃなく、価値を増やすには、自分だけの言葉が無くてはダメだという事ですね。

だから、引きこもる力は大切だと。

ひきこもるのは悪い事ばかりじゃないんだと。

自分と対話している人たちは決して無駄な時間を使っているわけじゃないから、それを無理矢理社会に引っ張り出すのは間違いだと。

私も社交的ではない方ではないので、なるほど…と思います。社交的な人たちは羨ましいですが、ちょっと疲れますね…(汗)

 

 

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