【障害者福祉】生産性のない人間は生きる価値がないのか?『こんな夜更けにバナナかよ』著者・渡辺一史が問う

どうも、就労移行支援を受けているMです。

自分の体にハンディキャップを抱えていると、必然的に自分自身について考えざる得ない状況が必ずやってきます。

それは精神でも持病でも同じことが言えるでしょう。

先週のグループワークで出ていた「進化論」「人間社会」から「障害者の人生」について書いてみます(*‘∀‘)

生産性のない人間は生きる価値がないのか?『こんな夜更けにバナナかよ』著者・渡辺一史が問う

  • 人が生きていることの深みは、「生産性」という一面的な価値観では決して測れない
  • 重度障害者の自立生活において、「支える」と「支えられる」は常に逆転しうる関係にある
  • 障害当事者が声を上げたからこそ、現在のバリアフリーや在宅福祉の制度がつくられ、その恩恵を健常者も日々享受(きょうじゅ)している

生産性のない人間は生きる価値がないのか?

今日、「生産性」という物差しで、人間の価値を測るような世の中の風潮が強まっている。

インターネットを開くと、障害者や高齢者を“社会のお荷物”とみなすような露骨な投稿や主張を目にすることも多い。

「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」

「なぜ税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなければならないのですか?」

「自然界は弱肉強食なのに、なぜ人間社会では、弱者を救おうとするのですか? 優れた遺伝子が生き残るのが、自然の摂理ではないですか?」

こうした素朴で露骨でデリカシーのない問いや主張は、今日の日本が抱える財政難や混迷を続ける経済状況を背景にますます増長し、力を強めているようにも思える。

障害者のおかげで社会は助けられている

「障害者って、生きてる価値はあるんでしょうか?」という問いに対して、渡辺さんは言う。

「そういうことを口にする人に逆に聞いてみたいですよね。『あなたこそ生きている価値はあるのか?』と」。

たいてい人って、自分だけは例外であるかのように、他人のことをとやかく言いがちですが、『そんなことを言っているあなたの方こそ、生きている価値はあるのか?』と聞かれたら何と答えるのでしょう。いや、自分は健康だし、一生懸命働いて、ちゃんと税金を払っているし、などと言うかもしれませんが、それが果たして他人を納得させられる価値と言えるのでしょうか。また、そもそも多くの人は、自分に生きる価値があるかなど普段考えもせず生活していると思います。なぜことさらに障害者だけ、生きる価値を問われなくてはならないのか。それに対する答えもぜひ聞いてみたいです」

また、「なぜ税金を重くしてまで、障害者や老人を助けなければならないのですか?」といった問いに対しては、「障害者や老人は、ただ助けられるだけの存在なのだろうか?」と疑問を投げかける。むしろ障害者や高齢者の存在によって、社会が支えられている側面がたくさんあるのではないだろうか。

障害者に関していうと、その最も分かりやすい例が「駅のエレベーター」だと渡辺さんはいう。

「普段私たちは、駅にエレベーターがあるのは当たり前だと思って生活しています。でも、駅のエレベーターは“自然の流れ”で出来たのでも、鉄道会社や行政の“思いやり”で出来たのでもありません。鹿野さんのように地域に出た障害者が、1970年代から『駅の段差をなくしてほしい。エレベーターを設置してほしい』と延々と陳情や運動を続けて、ようやく実現した成果なんです」

(中略)

大切なことは、エレベーターが設置されて得をしたのが障害者だけではなかったことです。高齢者や、ベビーカーを押して外出する親、重たいキャリーバッグを引く旅行者など、エレベーターはさまざまな生の条件を背負った人たちの利便性につながっています。障害者の切実な訴えには、こうした面があることを私たちは忘れるべきではないでしょう。最初は『なんてわがままな!』と反発さえ覚えた訴えが、結果的に社会全体をいい方向、豊かな方向に変えてくれることが往々にしてあるからです」

障害者が生きやすい社会は、健常者にとっても生きやすい社会である。

多くの障害者たちの「地域で暮らす」という実践が、今日のような在宅福祉の制度の充実につながったことも忘れてはならない。

なぜ人間社会では弱者を救おうとするのか?

「たとえば、現代において価値が高いと思える人間だけに生存を許し、価値が低い人間を皆殺しにするとしたら、時代が変わって、その価値観が意味を持たなくなった瞬間、人類が滅んでしまうリスクを抱えることになります。もしも戦国時代に、武芸のできない男は役立たずだから、全員殺すという選択をしていたとしたら、今日の科学や経済の発展はなかったかもしれません。何千年、何万年先に人間の社会がどうなっているかなど誰にも分かりませんから、あらゆる可能性を考えて、現代では価値が低いと思える人間も、1人残らず生存を保障していくことが、人類が存続していく上で欠かせない条件だということです」

(中略)

誰もが一生健常者でいることなどできないし、「自分は健常者だ」と思っている人でも、職場の環境やストレスなどで、うつ病やパニック障害を発症するようなケースは今日では決して珍しくない。体は元気でも、内面的な不安定さを抱えていたり、感情をうまくコントロールできなかったり、人間関係でつまずきが多いなど、社会生活のさまざまな場面で、生きづらさや不適応を起こしている人が多く目に付くのも現代の特質である。

「だからこそ、たとえ障害があっても、あるいは、社会に適応できない面を抱えていても、適切な支援を受けながら、その人なりの能力を発揮して活躍できるような社会にしていく必要があります。そのために必要な福祉や社会保障制度だからこそ、厳しい財政状況でもみんなで支えようという方向に歯車を逆に回していくことこそが大切ではないのでしょうか」

もともと「障害者」と「健常者」という言葉の間には、明確に線引きできるような境界線があるわけではない。

まわりを見渡しても、障害者なのか健常者なのかよく分からない人が、そこかしこにあふれているのが現代の日本社会の特色でもある。

障害と健常は、本来ひとつながりであり、人間にとって表と裏、光と影という側面を持っていると渡辺さんは言う。

一方を消せば、もう一方も消えるという深い関係性の中に、人が生きることの奥深さもまたあるのかもしれない。

【引用元】https://www.nippon-foundation.or.jp/journal/2019/36253【日本財団ジャーナル】

参照動画

 

映画「こんな夜更けにバナナかよ」はポルノグラフィティが主題歌をやっていた映画だった記憶があります。

予告を見た時、変わった作品だなぁと思いました。

というか、この引用記事凄すぎます(笑)先週のグループワークの内容とほぼ一緒!

まさにこんなことを話していました。

ストレス社会と呼ばれる現代社会、今や誰もが障害者になり得る時代。

「自分は健常者だから何をやっても良い」とふんぞり返っていると、いざ当事者となった時に困るのは自分自身なのです(´・ω・`)

また、障害者もハンディキャップを抱えているからという理由で全てを悲観しないこと。

自分の人生を決めるのは自分自身であって、他人が決めるものではありません。

その上で自分の生き方についてゆっくり時間をかけて考え、周りのサポートを受けるようにしましょう(*^^*)

自分自身が当事者となったことで、その立場から役に立てることが世の中にはたくさんあるはず。

障害をマイナスではなくプラスに捉え、社会に活かしていくのが大切だと私は思います。

私はボランティア活動を通じて、そういった生き辛さを感じている社会人の為の居場所作り(理想郷)を作っていこうかなと考えています( *´艸`)

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