【障害者福祉】民間伝承から見る障害者の生き方について【民俗学】

どうも、就労移行支援を受けているMです。

興味本位で「江戸時代 福祉」と検索してみたら、興味深い記事を見つけました(≧▽≦)

日本の障害者の歴史

神話・民間伝説

日本の障害者は、歴史のはじまりと共に現われます。

日本で一番古い書物の「古事記」によれば、日本で最初の男神、女神、聖書にたとえればアダムとイヴに当るイザナミ、イザナギ二神の間に生まれた最初の子が、どうも未熟児のCPだったらしいのです。

3歳になっても体がグニャグニャなので、ヒルコと名付けられます。

水田などに住んで人や動物の血を吸うヒルです。

このヒルコは葦の船に乗せられて海に流されて、歴史の上からは姿を消してしまいます。

そのヒルコが後の時代になって、民間伝説の中ではエビスと名を変えて、福の神としてリハビリテーションするのです。

葦の船が無事に岸に流れついて、そこで魚釣りの神となったという話です。

新しい国造りに忙しい当局者から消されたものが、庶民の力によって復活させられたのです。

その他にも日本神話には、スクナヒコノミコトとかクエビコとか、小人だったり、歩行不能者であることを思わせる神がいます。

身体に障害があっても、優れた頭脳の持ち主として登場しているのです。

民間伝説といえば福子伝説というのが日本各地に存在しています。

障害児が生まれるとその家は栄える、という言い伝えです。

そうした子供が生まれると、その子が一生困らないように……と、家族全体が心を合せて仕事に励む結果が、その家を栄えさせることになるのでしょう。

その家族にとっては非常な努力と苦労の結果に違いないでしょうが、近所から見ると、いかにも障害児が福を招き寄せるようにも見えたのでしょう。

見方を変えると、この福子伝説の広がりが、障害児たちを生かすことに役立ったことになるのだと思います。

福の神といえば時代はぐっと近くなるのですが、七福神信仰というのがあります。

7人の福を守る神々ということで、この7人を乗せた宝船の図を飾ったり、新年にはそれぞれの神をまつった神社を7ヵ所参拝して回るという習慣が、江戸時代の庶民の間には盛んだったようです。

ところがこの7人の神の中でただ1人の女神である弁天を除いた他の6人は、どうも障害者としての傾向が強いようです。

さっきあげたエビスをはじめ、精薄とか水腫症とかの症状が見られるのです。

こうした見方はなにも私だけのものではなく、江戸の同時代の人がすでに指摘しています。

ここで注意したいのは、この7人の神のもとの国籍です。純粋に日本といえるのはェビスくらいのもので、他は中国であり、インドであるのです。

エビスと並んで代表的なダイコクも日本では大国主神となっていますが、どうもインドのダイコクテンが源であろうとの解釈も可能なのです。

説明する紙数がないので飛躍的な論理となりますが、障害者は外国人並みに少し違った人間と見られていたのでしょう。

そして外国人を見る機会が多ければ、障害者も特別に意識しないですんだのだと思われます。

仏教や漢字文化の伝来が示しているように、日本文化の基礎が確立していたその時期は、中国や朝鮮半島との交流も盛んで、外国人を見る機会はあったのです。

そして、中国を通じてシルクロードとも結ばれていたのです。

また、そうした神話や民間伝説を語り継ぐ役を果たしていたのが、老人であり、盲人をはじめとする障害者であったことも、忘れてはならないでしょう。

盲人の記憶力のよさもあげられますが、これらの人々は狩とか田畑に出るよりも、家にいてイロリの火を守ったことが考えられます。

イロリは人々の集まる場所であり、今でいうならば情報の中心を把握していたことになるので、重要な位置を占めていたことになりましょう。

古代統一国家

奈良に都を定めた天皇家の古代国家は、当時の中国の唐を手本にして、中央集権の国家を創ろうとします。

土地と人民をすべて国の直轄化におこうとしたのです。

その時の法律に障害者対策が明示されているのです。

税の減免措置がそれです。

人数割りで分けた土地から納めさせる米や麦を、障害者がいる場合には、その障害者の障害度によって、納めさせる量を減らしたのです。

このような障害者への減免措置が法律に明示してあるのは、この時の他には、現代(太平洋戦争以後)まで無かったことと思われます。

それだけ税の取り立てがきびしかった表われでもありましょうが、障害者を1人の立派な公民として扱い、しかも障害度に応じて対応していることは確かなのです。

但し減免といってもまるっきりゼロになるわけではなかったので、その分だけ家族や村全体としての負担が増えることになるケースもあるわけで、それに苦しんで土地から逃げ出さねばならなくなる人々もあったようです。もっとも健康な人でも税に追われたり、税を嫌ったりして逃げだす人々はいたようです。

この奈良時代は仏教が国の宗教となり国家の権力と結びついたのですが、その中で現在の社会事業と呼べるものが発足しています。

大阪の四天王寺などに建てられた悲田院(養老施設)とか、施薬院(医療施設)がそれです。

こうした公立の施設は、その後あまり記録されていないようです。

国家統一のために犠牲となって多くの地方豪族が滅ぼされた争乱や、無理な土地制度の皺寄せで家を失い、家族の保護を受けられなくなった老人や障害者が多くなっていたとも考えられましょう。

この奈良時代の天皇家のスターとして、光明皇后の名があげられましょう。

当時としては新興貴族であった藤原氏の期待を集めていたのです。

この光明皇后が貧しいハンセン氏病患者の看病をした話が伝えられています。ハンセン氏病はこの頃すでに現われていて、それ以後も各時代を通じて社会問題となり続けるのです。

障害者で明らかに歴史に現れてきているのは、盲人とハンセン氏病者だ、と言えるでしょう。

次の平安時代は、京都が都となり、貴族の時代になります。

優美で典型的であることが重んじられた貴族の生活では、個性的な(?)障害者は好まれなかったと思われます。

形の異ったものは、よい評価を得られなかったでしょう。

同じ貴族の家に生まれても障害者は、宮廷のサロンには出にくかったに違いありません。

都の西の郊外の嵯峨に昼も帳(絹のカーテン)をおろして住んでいる学者がいたという話が残っています。

内部疾患の可能性が強いのですが、ともかく障害を持った人が、学問に打込んでいたとの想像が湧きます。

この例のように都を離れた郊外の別荘で暮らすのが、貴族の障害者たちの姿だったかもしれません。

また、東の郊外には、清流のほとりに琵琶の名手が住んでいた、とあります。

この人は悲しみのあまり泣きすぎて目が見えなくなったのだ、と伝えられています。盲人と音楽の結びつきを示す話です。

また、南の郊外の岩倉には心の病い(精神障害)の姫君が浴びた滝というのがあります。

この噂が広まって、滝参りをする者が増えたのですが、すぐに治る人ばかりではありません。

長逗留となって近所の農家にあずけられる子供も出来ました。

こうしたケースが発展して貴族の精薄児が農家の養子となることがよく行なわれるようになります。

貴族としては付添いを付けての滞在費などの面倒が軽くなり、農家としては土地争いなどが起きた時に守って貰える、という双方のメリットがあったのです。

あずけられる精薄児や精神障害者にとっても、町の中の生活よりも郊外の田園生活に移ることによって、今でいう開放療法の効果を得られたことにあったのでしょう。

江戸時代中期の俳人与謝蕪村の俳句に、“岩倉の狂女恋せよほととぎす”というのがあるのも、これと関係あるのでしょうが、岩倉という土地と精神障害者との深い関係は、つい最近まで続いていたのです。驚くことに千年近い歴史なのです。

江戸時代(近世)

豊臣から政権を奪った徳川家は、政権の所在地に江戸を選び、以後260年にも達する長期安定政権を築きあげます。

この間に徳川一族から15人の将軍が立つのですが、その中で九代目の家重と十三代目の家定の2人には、明らかにCPの症状が見られるのです。

特に家定の方は、ハリス(アメリカの初代駐日公使)の「ニッポン日記」にその様子が詳細に記入されています。

そうした強い言語障害まである身障者が将軍でいられたのも、親子代々間じ職を継ぐという世襲制度と、変革を許すまいとする強固な官僚制度の支えがあったからでしょう。

それも最高の権力者である徳川本家だからこそ出来たことで、他の大名をはじめとする家では出来なかったでしょう。

徳川政権ではそうした状態を見つければ、それを理由にしてその家をつぶすことを、常にねらっていたからです。

そうした身障者の将軍を2人も出しながら徳川政権は、身障者保護の政策を打出していません。

例外としては盲人保護政策があり、これは手厚くて、かなり徹底したものでした。検校制度の公認と奨励がそれです。

検校制度はとても一口に言えないぐらい複雑なものですが、大まかにいうとすれば盲人たちを検校・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)・市(いち)の4段階に分け、1番上の検校ともなると社会的に大名の位の待遇を受けたと言います。

外出は立派な駕龍(かご)に乗り、大名と同じ人数のお供が付きました。位が1段階上るごとに相当な金額を納めなければならないのですが、そのかわり適当に配当金もあって、相互扶助のシステムになっていました。

こうした身分制度(しかも金で買っていける)への批判はあるでしょうが、この制度によって保護され、またそれなりの権威を保てたことがプライドにも影響したのでしょう。

この江戸時代には優れた盲人たちが輩出します。

あんま・ハリ・灸(きゅう)など医学的な面で盲人の職業をひらいた杉山検校、琴の名人として琵琶に代わる音楽を普及して、その演奏と指導を盲人の職業として確立していった八橋(やつはし)検校、歴史学者として当時の第一人者ともなった塙保己一(はなわほきいち)などは特に有名です。

もちろん、優れた名を残すような盲人よりも、そうでない人の方が多いのは当然でしょう。

それら多くの盲人のために、位を買うお金をつくらせるという理由をつけて、徳川政権は盲人に金貸し業をさせました。

公認の金貸しですから威張ったものでした。公認を笠にして強引な取立てもやったようです。

金持ちの商人などは、金の無い盲人に陰で金を回しで金貸しをさせていたらしいのです。

あくどくやりすぎて嫌われることもあったようですが、嫌われるだけの力は持っていたと言えましょう。

この時代になると、武士ばかりでなく、江戸や大阪の商人たちをはじめとして庶民にも学問をする環境が育ってきます。

そうした町人の子供相手の個人企業の小さな学校が、寺小屋と呼ばれるものです。ことに注目されるのはその寺小屋で学んでいた子供たちの中に、意外にも障害児が割合いとしては多くいた、という記録が残っていることです。

学問するようになったとしても、まだまだ文盲が大部分の世の中ですから、簡単でも読み書きソロバンが出来れば、たとえ体は人並みに動かない体でも生きていくには困らない(経済的に)だろうし、軽蔑されることもないだろうから……と親は思ったに違いありません。

また、この時代に庶民の間で盛んになった俳句には、足の悪い人や盲人などの障害者たちも多く親しみ、名を残している人々もいます。

文学の世界では日本ではあまり類が無い怪奇小説の作者で有名な上田秋成(うえだあきなり)は、幼い時わずらった天然痘(てんねんとう)がもとで両手の指に一生涯治らない障害を負っていました。

庶民の芸術としては、欧米にも有名な浮世絵があります。[葛]飾北斎(かつしかほくさい)といえば特に優れた画家ですが、この人のスケッチの中に「いざり車」を見かけました。

いざりが乗る車で、平たい木の箱に小さな木の車輪を付けて、手で地面を掻いかり棒で押したりして進むのです。

描かれている身なりの貧しさからして、盛り場や寺社の境内などに行って物乞いをして生きていた乞食(こじき)ではないか、と思われます。

将軍でもなく、検校などにもなれない庶民の障害者の姿がそこにあるような気がしました。

そうした物乞いをして生きなければならないような障害者でも生きて行ける一つの要素としては、町というか、もう少し狭い隣近所の親睦に役立っていた隣保(りんぽ)組織の働きがあったと考えられます。武家屋敷とか大きな商店を除いては江戸の庶民の住居は、長屋というスペースの狭い1階建ての集合住宅でしたから、人々は顔を会わせないではいられなかったのです。それに徳川政権はキリスト教の抑圧を徹底するために、相互に監視させるねらいもあって相互の連帯を強化させる政策をとっていました。

オーバーに表現すると、すべての責任は長屋全体で負わなければならない、という具合いでした。

その真のねらいがどうであれ隣近所の相互扶助のシステムが障害者にプラスしていたことは確かでしょう。

【引用元】https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/rehab/r054/r054_002.html【障害保険福祉研究情報システム】

 

「神話・民間伝説」「古代統一国家」「江戸時代」の大きな3つの項目から障害者の歴史について見ていきましたが、時代によっては生き辛かったり生きやすかったり…。

グループワークでよく話されている「神話・民間伝説」の話が個人的に興味深いなぁと思いました。

蛭子神(ヒルコ)は、スマホゲーム「剣が刻」に出てきていたので存在は知っていたのですが、詳しい話まではよく知りませんでした。

そういや、ヒルコはエビスとも読むなぁと。

初見で本気で「エビス」と読んでましたし(笑)

産みの親からは疎まれて海に流されてしまったけど、たまたま通りかかった庶民に助けられて「福の神」となったのは面白いですね。

というか、神話・民間伝承の世界では障害者は「福を招く存在」とポジティブに捉えられているのは、広い視野を持っていた古代の人ならではの発想なのかなぁと思います。

どうしても現代は生き辛さばかりフォーカスされてしまいがちで、こういった古代の見方を言い伝えていく機会が無いですよね(^^;

こういった民間伝承の観点から障害者福祉の在り方について考えていくことも良いのではないかと私は思います(^^)/

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